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素材:ラバー
生産国:イタリア






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観光地づくりオーラルヒストリー<第3回>前田 豪氏
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概要

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前述したように約半世紀に及ぶ小生の、観光分野でやってきたことを大別してみますと、「観光調査・研究」「観光計画の作成・実現までのプロデュースとその後のフォロー」「観光計画書の執筆」「講演・教育」の4つに分けられそうです。

●最初に取り組んだのが「観光調査」

前述したように、最初はコンピューターを利用した観光計画方法論や観光地づくりのあり方を研究しており、ラックに入ってからは数量化理論を利用した観光資源評価を行うようになりました。前述した(財)日本交通公社の『全国観光資源調査』のお手伝いです。観光資源の最終的評価は、その当時多くの観光資源を実際に見られていた鈴木忠義先生や当時の『旅』の編集長岡田喜秋さんなどが経験に基づいて、全国の8千あまりの観光資源を、特A級(国際的に通用する資源)、A級(全国民が一度は見るに値する資源)、B級(全国8ブロックの地方の人が一度は見るに値する資源)、C級(都道府県の方が一度は見るに値する資源)というランクで評価をしていました。この評価ランクは、今も有効と考えていますが、この時に設定した「観光資源」という概念は、名所旧跡や神社仏閣、各種文化財、行祭事などで、今も踏襲されている人や地域が多いようです。しかし、我が国と観光先進国との決定的な違いである「街の美しさ」の失念に繋がる、「住んでいる街そのものが最高の観光資源」という考えが、なかなか普及・定着しない一因にもなったのではないかと思っています。

調査・研究では、地域開発センターからの依頼で1975(昭和50)年に鈴木先生の指導の下に行った「大規模観光レクリエーション総合調査(第Ⅲ部)実態とあり方)」は、まだ机上論であり、かつラフでしたが、観光地整備のあるべき方向が見えたような気がしました。旧(社)日本観光協会と一緒にやる調査・研究も多く、随分勉強させていただきました。その中で、最初に手掛けたと言ってもいいぐらい強く印象に残っているのが、1979(昭和54)年に行った『観光からの町づくり;国土総景・住んでよし・訪れてよし・美しい町つくり』です(左はその表紙)。新聞や雑誌等も含めて、目に付いたあらゆる資料から、国内外の観光先進事例350事例を集め、分類した調査です。先進事例収集調査としては、先駆的と思っていますが、実際に見たわけでもなく、経緯等を含めてしっかり聞いたわけでもないにもかかわらず、臆面無く集めたわけです。自分自身大層勉強になったものの、35年前だったから“先進事例”として許されたわけで、今では“よくないやり方”と考えています。一日ぐらい見聞きした程度で、その施設の良さ・課題は見えませんし、いわんや「最近流行っているから紹介しよう」というのは、流行り・廃りを増長するやり方ではないでしょうか。

また、『日本型リゾート計画論』(社)日本観光協会1990も思い出深い調査です。まさにバブル期真っ盛りで、大規模複合リゾート計画が目白押しの頃でしたが、おしなべて欧米のモノマネのような計画ばかりで、日本にも宇治平等院という現存する最古の別荘があるように、独自の別荘文化を育んだ歴史をもっと大事にして、「日本らしい、上質のリゾートを計画すべき」と、問うた調査書です。こうした考えを踏まえて、三重県の鳥羽に計画したのが「鳥羽浜離宮」なのです。

この日本型リゾートの考えを固めていくのに役立ったのが、1986(昭和61)年から始めた『海外観光旅行事情調査』です。これは日本とアメリカ、イギリス、フランス、ドイツの旅行状況を比較したもので、我が国の宿泊旅行の貧弱さに吃驚しています(次頁右は『海外観光旅行事情2013』より)。

最初はリゾート事業協会の依頼で始めたものですが、その協会が2007年に解散したため、以降は弊社の自主研究として今も続けています。我が国の宿泊旅行の量(回数・1回あたりの宿泊数・年間宿泊数)は、それら先進国になかなか追いつきませんが、今では量的な差違をつめるのではなく、日帰り旅行を含めて、四季折々いろいろな楽しみ方をしている日本の良さ(これは他の4つの先進国には見られないようです?)を、しっかり認識することの方が重要ではないかと思うようになりました。当然それを受け止める空間も、欧米の真似をすることなく、日本と風土の良さを大切にした、日本らしいものにすることが、国民にとってもインバウンドを惹き付ける上でも大切と考え、鳥羽浜離宮を考えたわけです。幸いにして実現しませんでしたが、またまだ中途半端だったと反省しています。

その他、観光地づくりの考え方・手法を整理したのが、以下の3部作です。いずれも10年以上も前のものですが、観光計画に携わって約四半世紀になり、観光計画に取り組むスタンスが大体固まり、小生の観光計画手法の体系とも言えるかと思います。

『観光地づくりの手法』(社)日本観光協会 2001 
『新世紀の観光地域づくりの手法』(社)日本観光協会 2003
『これからの観光地づくりのための手法』(社)日本観光協会 2004

この調査書を作成するのに大いに役立ったのが、(社)日本観光協会が主催していた「優秀観光地づくり賞」の委員になったことです。この賞は1993(平成5)年から2009(平成21)年まで17回開催され、計70箇所・団体が顕彰されています。小生は、第6回から委員になり、12回から委員長になり、応募されてきた調書を見たり、入賞した観光地を現地視察した関係で、実に多くの観光地のことを知ることが出来ました。そしてこれに係わった12年間の間に、バブル崩壊後の観光不況と言うこともあり、かつての輝きを失っていく観光地を見聞することも多くなってきました。そんなことから2008(平成20)年秋号から2011(平成23)年冬号までの10回にわたり、「優秀観光地づくり賞」受賞観光地の『今』という記事を連載させていただき、それをベースに加筆して纏めたものが、私製本『「優秀観光地づくり賞」受賞観光地の『今』』です(左はその表紙)。何処もなかなか厳しい状況にあり、つくづく継続する難しさを実感したところで、そんな想いを込め、サブタイトルに「不易流行」で観光立国日本を築こう!としているわけです。しかし、有為転変。70の受賞観光地の内、20年後いくつ元気で残っているでしょうか。

調査の中で異色なのが工芸関係の調査で、何件か手掛けています。最初は1974年の『沖縄北部地域開発構想計画』で、沖縄本島の伝統工芸業を全て調べました。この時の調査には、大学時代に益子で陶芸を習いに行っていたことが役に立ち、壺屋が市街地にあり、松材で釜を焚きますので、その煙が公害ということで読谷村に移ったばかりの壺屋焼金城次郎さん(後に人間国宝)と陶芸談義が出来、金城さんの作品をいくつか買ってきました。縁というのは面白いもので、伝統工芸のことをかじっているということが知られ、今度は石川県の工芸業を調べる仕事が舞い込みました。それが1979~1982年の『伝統工芸と町づくり』で、その1年目に作成した『日本の工芸業・石川の工芸業』は、数年後古本屋で高値が付いているのを見て吃驚しました。2年目からは、当時城内にあった金澤大学の移転を前提として、その跡地に伝統工芸街を造るという構想に取り組みましたが、残念ながら実現には至りませんでした。

そして今度は盛岡市から、市街地にある南部鉄器が、公害で立ち退きを迫られており、かつ後継者もおらず、なんとか再生の道を探したいという調査が舞い込みました。盛岡市内の工芸業を全て見て回り、移転希望者の経営状況等を調べ、市の郊外にある御所湖のほとりに、伝統工芸業の工房団地「盛岡手づくり村」計画を作成しました。1979(昭和54)年から2年間調査し、5年後の1985(昭和60)年に開業しました。年間利用者数は、年間15万人程度と予測していましたが、1年目は約80万人、2年目には100万人を越す盛況で、現在も50万人近くの人が訪れる施設になっています。山梨県の峡南地方の工芸村の調査も手掛け、こうした経験もあって、観光はいわゆる観光資源に留まらず、地域の総合力を観(しめ)すことという想いが、強く根づくようになりました。

●大きな影響を受けた「住んでよし・訪れたくなるまちづくり」のアプローチ

観光施設やリゾート施設の計画と共に、市町村や広域の観光計画を随分沢山手掛けました。小生がもっとも多くの時間を掛けた、主力業務と言えましょう。観光施設の計画としては、前述した盛岡手づくり村を始め、山形県寒河江市のチェリーランド、山形県南陽市のクアハウス、静岡県相良町のリゾートホテル、徳島県海南町の海南文化村、宮崎県旧南郷村と西米良村の温泉施設他、5箇所のゴルフ場などいろいろ手掛けました。リゾート施設に関しては、バブル期に全国各地の大規模リゾート計画を20数件手掛けました。お陰でリゾートに関しては、随分勉強することが出来ましたが、振り返ってみますと、国民の欧米先進国のような長期に亘るリゾート活動はまったく成熟していませんでしたし、受け入れる地域においてもしっかり根づく計画とは、とても言えません。地方においては、自分達も楽しめる施設として捉えてなく、ただただ経済的な振興装置としての期待だけでした。幸いにして一つも実現しておらず、胸を撫で下ろしています。

市町村の観光計画、いわゆる「観光からのまちづくり」は、小生のライフワークの柱になっており、かなりの件数を手掛けています。この市町村の観光計画を手掛けるにあたって、かなり初期段階に貴重な教訓を得ることができました。

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教訓その2です。(財)地域開発センターのスタッフやその仲間の人たちは、石油ショックの後ぐらい(1975(昭和50)年前後)から、高度経済成長自体の“観光開発=施設づくり”に替わり、“地域づくり”という形で地元に入っていました。その一つである大洲市との係わり合いの中で、「住んでよし訪れてよし」という概念を最初に生み出したのが彼らです。それまで小生がやっていたのは、研究室や東京の事務所での机上論、いわば空中戦なのに対して、彼らは現場に入っていろいろ格闘されていた地上戦です。この「住んでよし訪れてよし」という概念は、すっと頭に入り、以来使わせていただき、小生なりに普及に努めました。「魅力的な観光地域づくりは、魅力的なふるさとづくりの延長線上にあること。また、そうしませんと住民との交流も楽しめませんし、地域が輝きませんし、なによりも長続きしない」ということを。

1976(昭和51)年に手掛けた『西伊豆町観光計画』は、前述したように『観光・レクリエーション計画論』がきっかけでお手伝いすることになった、小生にとって最初の「観光からのまちづくり」でしたから、気合いが入りました。出来るだけ西伊豆町に行くようにし、その年だけでなく、しばらくは夏休みの家族旅行は西伊豆町でした。幸いにして計画は好評で、次年度以降も計画に盛り込んだ沿道の修景や、民宿の指導などで仕事が続き、この時に「計画管理」という概念が形成されました。建築設計に、設計図通りに建物が出来るかを見届ける設計監理があるなら、計画だって同様なフォローが必要と考えたわけです。但し、建築設計の場合は建築家サイドの責任で100%監理するのに対して、「観光からのまちづくり」には、地域住民をはじめとして役場や民宿経営者など“先様”がいらっしゃるわけで、一方的に監理するというわけにはいかず、あくまでも計画案に沿って管理というか、いろいろ調整しながら計画案の実現に向けて後押しをしていくわけです。計画管理という言葉は、私が最初に作ったと考えていますが、殆ど普及しておらず、その後も小生1人で使用している状況です。

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西伊豆町の観光計画が評判になり、翌年1977(昭和52)年はお隣の旧松崎町の観光計画を手掛け、この町に江戸末期に活躍した左官の名人伊豆の長八の作品が残されていることを聞き、その博物館も提案し、後日「伊豆長八記念館」として日の目を見ています。その翌年が賀茂村、更に翌年土肥町の観光計画も担当しました。この間西伊豆町の計画管理は1978(昭和53)年から1983(昭和58)年まで継続され、これ以降、まちづくりに長く関わる仕事をするようになったというか、長く係わらなくては「観光からのまちづくり」は出来ないと思うようになりました。

市町村単位の観光開発は、山梨県や石川県でもいろいろ手掛けました。山梨県のその一つである早川町の観光基本計画(1983)において、設定した基本コンセプト・キャッチコピー「自然(かみ)の恵み・人のふれあい;南アルプス邑早川町」は、今も使われています。福島県でも棚倉町(1977)や広野町(1983)でも観光計画をお手伝いしました。棚倉町では計画したスポーツ施設は実現していますが、今どうなっているのでしょうか。元気にやられているといいのですが…。広野町ではミカンの北限であること等を勘案した計画(右はその表紙)の基本コンセプト・キャッチコピー「東北に春を告げる町・広野町」は、東日本大震災の前まで使用されていました。是非、一日も早く東北だけでなく、全世界に春を告げる町として再興して欲しいと心より願っています。

●大きかった宮崎県との関わり.故岩切章太郎翁に教わった「大きなソロバン」

市町村単位の観光計画について。「観光からのまちづくり」の“最新”というか、今も続いており、多くのことを学ばせていただいたのが宮崎県です。その中で、5つの事例について述べることにします。

その1-須美江家族旅行村

1977(昭和52)年頃から宮崎県の仕事が多くなり、亜熱帯ベルトパーク調査や須美江家族旅行村計画調査をはじめ、綾町、旧南郷村、西米良村などの「観光からのまちづくり」に計画段階から関わり、計画案の実現やその後の運営にも係わってきました。

宮崎県で最初に観光計画をお手伝いし、かつ実現した案件は、延岡市の須美江家族旅行村です。1979(昭和54)年でした。その3年ほど前に、当時の運輸省の観光レクリエーション室から、名指しで「運輸省が所管している観光施設として、小はユースホステルがあり、大は大規模観光レクリエーション基地があり、その中間規模でフランスにあるような家族旅行村を造りたいので、その原案を作成して欲しい」という依頼がありました。『中規模観光レクリエーション基地総合調査』という名称でした。6,300万人という空前のお客さんが押しかけた「大阪万博(1970)」は、この年を契機にそれまでの団体客から家族連れが旅行形態のトップになり、1970(昭和45)年は“家族旅行元年”になりました。この流れを受けて、家族旅行村が構想されたわけです。

当時の観光レク室は、運輸省からすれば傍流もいいところで、予算もわずかしかありませんでした。それゆえキャリアであるレクリエーション室長はまだ若くて、「自分が昨年行ったオーストラリアはこうだった」と、個人的体験をやたらと話散らかすだけでしたから、「そうじゃないよ」と思いながら、気合いを入れて原案を作成しました。

この構想に早速手を挙げたのが、宮崎県の延岡市でした。今は消滅している(財)日本観光開発財団が発注者になり、原案を作成した小生のところに調査が委託されました。その財団は当然運輸省の外郭団体で、担当された方は現地の状況やプランの中身より、上司に持って帰るお土産ばかり気にしている、典型的な“外郭団体職員”で苦労しましたが、翌年からは宮崎県の発注になり、のびのびやらせていただきました。延岡の市長さんが最初に手を挙げたものの、それだけで決めてはまずいということで、最初の調査は県北全域を調べた上でどこに整備するのが最適であるのかを決める調査で、“最終的(延岡市の意図通り)”に延岡市の須美江海岸を選んだわけです。きれいなビーチがあるところで、それに隣接した形で、コテージやキャンプ場を造ろうという計画を作成しました。

調査経過の基本的な説明は、知事室で行いました。4代前の黒木博知事の時代です。すごく観光に熱心な知事で、全国に先駆けて沿道修景条例も制定しています。担当部長と課長も同席されていて、家族旅行村として提案した内容を説明して、知事さんが「いいね」とかおっしゃられれば、それで決定になるわけです。私は当時30代半ばでしたが、偉そうなことをいろいろ言いました。「運輸省の担当者はよく解っていない、観光に関しては自分の方がよく知っている」と当時は自信満々でした。でも黒木知事は、ずっと私のことを買ってくれました。家族旅行村のプランでも、「県道が民宿と砂浜の間に通っており、子どもが砂浜に出るのに危ないから、県道の位置を民宿の後ろにずらすべきだ」と言ったところ、「なるほど」ということで本当に県道の位置をずらしてくれました。いい観光地をつくるには、リーダーのそれくらいの決断がないとできないと痛感しました。特にこれからの時代は、“引き算”が多くなると思われますから、余計リーダーシップが問われるのではないかと思います。

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〈故岩切章太郎氏に教わった「大きなソロバン」〉

この頃、戦後の宮崎観光の振興を積極的に図り、1972(昭和47)年には全国の新婚旅行の4分の1が宮崎県に来たという、宮崎県をして“新婚旅行のメッカ”に育て上げられた岩切章太郎翁に2度ほどお会い出来ました。今は取り壊された、ご自慢の深いブルーのタイルを貼った宮崎交通の本社社長室で、じっくりお話しを伺うことが出来たのは、掛け買いのない思い出であり、小生の宝と言っても過言ではありません。

その中で、2つの話が印象的で、今も覚えています。1つは子どもの国を造った (1936(昭和14)年) 直後の話です。まだお客さんのマナーが悪く、歩きながら食べたもの等の紙屑などをポイポイ捨て、園内は大変汚かったそうですが、岩切翁は職員に「お客さんの後をつけ、ゴミを捨てたら直ぐ拾いなさい」と指示したそうです。大勢のお客さんがいましたから、宮崎交通からの職員も動員してゴミを拾いまくったそうです。しばらくしますとゴミがまったく無くなり、「子どもの国はゴミも無く、凄くきれい」という評判になり、そうなりますとお客さんはゴミを捨てなくなったそうです。そして職員の手づくりだったゴミ箱には当然宣伝はありませんし、ベンチも同様でしたから、撮影した画面に企業の宣伝が入ることを嫌うNHKが、ここを朝ドラの「たまゆら(1965年放映)」の舞台に選び、それでまた大きく飛躍していったわけです。観光地づくりにあっては、「かいた汗だけ大きな花が咲く」という好事例だと思います。

もう1つは、「大きなソロバン」の話です。大局的な視点での経済活動のほうが、大きな利益をもたらすというのです。具体的には、右の図に示したように、魅力的な施設を造れば宮崎県の魅力が増しますから、宮崎県に多くのお客さんが来るようになり、当時はバス利用が中心でしたから、バス会社であった宮崎交通が儲かることになり、その利益を注ぎ込んで次なる施設を造れば更にお客さんが増えるという“好循環”が出来るわけです。このお話を聞いた時は、感動しました。

宮崎県の話ではありませんが、同じような“好循環”の例として、1980年頃だったと思いますが、静岡県の観光政策審議会の委員をしていて知り合ったホテルニュー赤尾の赤尾蔵之介社長から聞いた話です。このホテルは、チェックインを午前10時にし、チェックアウトを午後の2時頃にして「1泊で3日遊べるニュー赤尾」といった宣伝を打ったり、当時は珍しかった社交ダンスの大きなフロアを造り、ドレスを無料で貸し出して宿泊客に喜ばれたり、いろいろ話題を集めるホテルでした。極めつきは料理で、当時としては破格の高原材料率の料理を出し、評判になってお客さんが増えると更に原材料率を上げてお客さんを喜ばせた結果、お客さんが更に増えていったという話です。ところが最近は景気が悪くなりますと原材料率を下げ、当然お客さんには不評ですから次から来なくなり、更に資金がまわらなくなって一段と原材料率を下げ、お客さんが更に減るという“悪循環”に陥り、ついには閉鎖という話も耳にします。観光業は、ふるさとを魅力的にして訪れる人に喜んでいただく商売ですから、何時の時代も「大きなソロバン」を持ち続けることが大事だと思います。

その2-綾町

綾町の仕事は、工芸業がらみで始まりました。綾町には、旧島津藩がらみの竹刀づくりや地元産のカヤを使った碁盤づくりが息づいていた他、芸大出の県職員の元に若い陶芸家や織物家が集まり、ひむか邑同人を形成していました。この工芸業に着目して1981(昭和56)年に、『住んでよし・訪れたくなるまちづくり;綾町の産業観光の将来方向;手づくりの里・綾の発展を目指して』という計画を作成しました。町長は故郷田実さんでした。私が最初に町役場を訪れた時には、町長応接室で昼間から焼酎をご馳走になり、吃驚しました。また当時は自治体でご当地ソングを造ることが流行で、郷田町長ご自慢の綾紬音頭なるレコード盤をもらいました。郷田町長さんはこれまで行ってきた町政に自信を持たれているようでしたが、その一方で「うちは照葉樹林の面積が多くて田畑の面積が他町村の7掛けぐらいで、森から流れてくる水の温度が低いため、作高も他町村の7掛けぐらいで、“半分(0.7×0.7=0.5)農業のまち”」と歎いていました。

しかし、調査している途中で、「照葉樹林はジーン・プール(遺伝子の宝庫)だ」という新聞記事を見つけました。当時アメリカとイギリスは、地球規模で調査を行い、いろいろな動植物の遺伝子の登録合戦をやっていて、「照葉樹林は単位面積あたりの遺伝子が最も多く、きわめて貴重だ」という内容でした。それを郷田町長さんに見せたところ、ころっと見方を変え、照葉樹林の恵みを活かして「照葉樹林都市・綾町」ということで、町づくりが始まりました。照葉樹林を探勝するために、話題づくりも兼ね世界一の歩道吊り橋を造り、照葉樹林の材で綾城を造り、工芸品の販売と教室のために国際クラフトの城などを造った結果、キャンプ場だけだった町が「観光からのまちづくり」の注目株としてブレイクしていきました。

野菜を直売する「綾・手づくりほんものセンター」は、小生の計画ではありませんでしたが、綾町独自の事情で始まりました。綾町はかつては「夜逃げの町」と言われるくらい貧しかったので奥さんが働きに出ることが多く、そのためどうしても外食率が高くなり、稼いだ給料がそんなに手元に残らなかったため、町で家庭菜園を奨励したわけです。そうしますと、家では食べきれないほどたくさん野菜が収穫できるわけです。その余った分を換金できるように造った直売所が「綾・手づくりほんものセンター」です。農薬を買うお金を節約するために、みんな自分で堆肥をつくり、手間をかけて除草して育てたことが、結果的に有機栽培農法になっていたわけです。ちょうどその頃からアトピーが騒がれるようになり、「綾町の野菜は有機農法で育てた野菜」ということで、アトピーに苦しむ宮崎市内の人たちが買い出しに来始め、これも大ブレイクしました。

これからは国際化の時代ということで、町の中学校にアメリカ人の先生を招聘する提案も直ぐ実現しました。知り合いのアイビーリーグの教授にお願いしたところ、一番優秀な人を送り込んできました。しかし、郷田町長は自宅を下宿にし、娘さんの英語の教師もやらせたようで、「話が違う」とその学生は半年ぐらいで帰国してしまいました。ここあたりから町長さんとの蜜月は終わりを告げ、以降まったく綾町から離れてしまいました。しかし、綾町の評判はかなり高くなり、町長さんは講演に呼ばれることが多くなり、先々で「全て私が考え、苦労して実現させてきました」といった話をされているようで、おやおやと思った次第です。結果的に最後は、引きずり下ろされるような格好で町長をお辞めになり、舞い上がることの恐ろしさを知りました。

その3-南郷村

綾町の成功を受けて、宮崎県から「南郷村に『百済の里』というコンセプトで村づくりをしたい村長さんがいるが、具体的にどうしていいかわからないので指導して欲しい」と言われ、1987(昭和62)年に県から南郷村に派遣されました。百済の里というのは、南郷村に、白村江の戦い(663)に敗れて日本に亡命してきた百済王族の一人、禎嘉王が逃れてきたという伝説があり、これを活かした村おこしをしたいと、前年に村長に当選された田原正人村長さんが思いついてのものです。

この村には何点かの銅鏡が残されており、その一つが奈良正倉院にある御物と同じ時代で、同等の価値を持つ貴重なものだということがわかったわけです。村長さんに「この銅鏡を文化財としてしまい込み、研究用として使うのか、観光的に活用するのか」と問うたところ、即座に「観光的に活用したい」と。それならばということで、人を惹き付けるために、銅鏡を収める施設を奈良の正倉院と同じものにして、「西の正倉院」を創ろうと提案したわけです。2月に指導に行って、その年の8月には計画ができあがりました。基本コンセプトは、「百済との1300年におよぶ交流を今に活かした;西の正倉院・百済の里・南郷」とし、南郷村の文化と百済の文化が織りなすまちづくりをしようという計画です。計画で提案した案は、父子が年に一度再会する師走祭りに因み、小高い丘に百済の首都扶余にある四阿と同じものを再現した恋人の丘を初めとして、地元料理を出す茅葺きの南郷茶屋、韓国料理を出す丹青を施した百済の館、南郷と百済関係の小さな店が連なる百済小路、そして“中締め”となる西の正倉院など殆どが実現しました(右の写真)。ただし、百済の館は素晴らしくきれいに出来すぎ、焼き肉屋にするにはもったいないということで、百済関連の資料館に変更されましたが…。

ともあれ一時は宮崎県下で一番元気になり、以前は自分の村を紹介するのに、「日向市の西にある村」と言っていたのが、「百済の里の南郷村」で通じるようになり、過疎問題の解消にはまず「心の過疎」の解消から始めるべきで、それには観光がお役に立てるということを実感しました。また、村長さんは「こんな不便なところに観光客は来てくれるのだろか」と心配していましたが、国民の旅行体験もかなり積まれ目が肥えてきましたから、「行きやすいところでなくとも、行ってみたいところを創れば必ずお客さんは来る」と説得し、大勢のお客さんが来てくれて小生もホッとしました。この考えは、更に強まり、後述する熊本県境の山の中にある西米良村でも、立地条件については何も心配していませんでした。

村長さんは温厚な人格者でしたが、その下で仕切っていた課長さんが段々有頂天になり(?)、一人で講演に出かけ、その結果を課員のいる前で得々と話したり、メディアや視察に来た人の応対も一手に引き受けるようになり、小生からあれこれ指導されるのが嫌になってきたのでしょう。小生との契約が切れ、独自に採用した支配人と基本コンセプトから逸脱した施設を造り始めました。例えば、南郷茶屋はどういう訳か山形風の蒟蒻屋敷に替わりました。そのうち村長さんが変わると、新村長さんは百済の里にはあまり係わらず、別方向のコンセプト(があったのか、無かったのか)で、林業関係の補助事業を利用して“鄙にも稀”な贅沢な宿泊施設を整備し、最初のコンセプトから益々離れていってしまいました。施設は維持費がかかりますから、手を掛けなくなると直ぐにダメになります。茅葺きの南郷茶屋もまったく手入れをしなくなりましたから雨漏りがするようになり、それでトタンを吹いたのですが、益々魅力が低下し、ついに閉店です。贅沢な宿泊施設も同様です。

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その4-西米良村

西米良村の仕事も、やはり宮崎県の主導でした。1993(平成5)年に、県下で人口が最も少ない3町村をモデルに、一次産業と二次産業、三次産業全てを有機的に連係して地域振興を図ろうと『第六次産業育成モデル研究調査』が行われ、これを担当して西米良村を訪れたのが最初でした。

モデルとして取り上げた3町村(諸塚村、日之影町、西米良村)の中で人口が一番少ないのが西米良村で、熊本県の県境にあって、96%が山林の村です。人口は最初に行った時は約1,500人でした。高度経済成長期は林業がよかったこともあり、ピーク時には7千人ぐらいの人が住んでいたそうです。木材が売れ、まだ外材を入れていませんでしたからどんどん伐採して杉を植えていました。全国何処もそうで、それが花粉症の蔓延に繋がっていきました。しかし、木材価格の高騰を受け、1964(昭和39)年に外材輸入が自由化され、合板技術も格段と進歩した結果、国産材は急速に値下がりし、林業が段々立ちゆかなくなりました。そして副業のシイタケも最初は儲かっていましたが、中国産が入って価格が暴落し、これも衰退していき、ダム整備もあって少子過疎化の象徴みたいに、村の人口は減少してしまいました。こうした状況の中で、県の調査が行われたわけです。

当時の故濱砂五朗村長さんは、綾町や南郷村の取り組みを知っており、『第六次産業育成モデル研究調査』の報告書を読まれ、幹部職員に私にしばらく任せようと明言されたそうです。そして次の年に、西米良村で『総合産業フィージビリティー調査』を行い、その次の年に村おこしの計画『生涯現役元気村;カリコボーズの休暇村・米良の庄』が出来ました(右の図は一連の3つの報告書の表紙)。米良の庄というのは、村内にある8つの集落ごとに振興を図るという意味です。前述したように、南郷村を手掛けていた頃から強力なコミュニティが形成されている集落単位で、「自分達のふるさとは自分達で守る」という計画が、「持続する地域振興の鍵」と思うようになっていましベアブリック/BE@RBRICK シリーズ16 シークレット realmad HECTIC(メディコムトイ・フィギュア)

花卉産業などの産業振興も提案し、天包山の花卉団地の観光化も含めた拡充計画も作成しています。当時村で主流になりつつあったのが、ゆずやパンジー等の花卉栽培で、どちらも収穫期に作業が集中します。例えばパンジーの場合、発芽した苗を一斉に鉢植えする作業があり、ゆずも重いので、高齢の方にはきつい仕事で、人手不足が深刻になってきました。新しい産業興しの前に、とにかく今ある産業のことを何とか支えよう、人手が足りないならばそれを補完する仕組みを考えようと提案したのが、日本型のワーキングホリデーです。これは、パンジーの鉢上げや柚子の収穫を手伝っていただき、その一日の給与以内で村営のキャンプ場のバンガローなどに泊まれるようにしたものです。バンガローの料金変更には、一部条例を変える必要がありましたが、「よし、わかった」と村長が決断し、地元の若い人たちの青年部会長やゆず部会長さんが「面白い、やってみようじゃないか」と、取り組みがスタートしました。その記事を、今は宮崎日日新聞の編集局次長になっている田代学さん(当時は高鍋支局長)が、宮崎日日新聞の一面に記事を載せてくれました。それからすぐに朝日新聞が追随して西日本版の一面に記事を載せて一躍有名になり、北は北海道、南は沖縄から予想以上にお客さんが来るようになり、西米良村は一躍全国に名前が知られるようになりました。1997(平成9)年でした。

現在村の主力観光施設になっている村営の温泉施設「ゆた~と」が、村の中心地区である村所集落に整備されたのが1999(平成11)年です。この整備にあたっては、建物の計画だけでなく、料金設定とかレストランの料理メニューまでを含むソフト設計も行っています。重点を置いたのが、料理と館内の清掃です。料理に関しては、宮崎の一番有名な料亭の亭主森松平さんに頼んでメニューを作ってもらいました。「一番高くても1,200円までで、できるだけ500円くらいの安いメニューも作って欲しい」といろいろ注文を出すわけです。器も地元の宮崎の焼き物を使うことにしました(右の写真)。清掃はまずトイレの掃除をこまめに行うようにし、トイレも含めて館内にスタッフの家で採れた花を飾るように提案し、これは開業以来今も続いています。

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西米良村においてかつてお城があり、田畑も多く、一番賑わっていたのが小川集落です。その結果、大学進学率が高かったため、村に戻ってくる子弟が殆ど無く、役場のある村所集落に取って代わられたわけです。しかし、住民のプライドは高く、村所地区の賑わいを見て、自分達もなんとかしようと考え、山梨県早川町の「南アルプス山菜祭り」をモデルにして2000(平成12)年、「カリコボーズの山菜祭り」を始めました。最初は半信半疑だった住民もお客さんが900人も集まり、約100万円の売り上げもありましたから、「来年もやりたい」という声が上がり、今年で早15回目を迎えています。

そして年間を通して集客と雇用の場づくりを5年以上も提案し続け、ようやく2009年、おがわ作小屋村が整備されました。茅葺き屋根の食事処と交流棟、豆腐等の加工所からなるミニテーマパークです(次の写真)。ここで出した、16個の小皿に郷土料理を盛りつけた「小川四季御膳」が大当たりをして、平日でもこれを食べにお客さんが来るようになりました。この小川四季御膳に刺激され、プロの料理人が居る「ゆた~と」の料理も一段と改善され、いい意味での“集落間競争”が活溌になってきたのは、なんとも素晴らしいことだと考えています。翌年の2010(平成22)年、より強力な集客装置として福島の花見山をモデルにして、小川花見山づくりが始まりました。小川地区の住民約100人の半分以上の人が参加して、花木を植えていこうというものです。今年の3月で、早5回目の植樹祭を行い、ポツポツ花が咲くようになり、後10年も続ければこれを見るのを目的としたお客さんも出てくるのではないかと思います。

西米良村に関しては、小生がこれまでの「観光からのまちづくり」の経験と、見聞してきた全国各地や海外の事例全てを網羅し、適宜紹介すると共に、それに学んだアイデアや新しい提案・計画づくりをしてきました。そしてそれを記録すると共にフォローするために、西伊豆町で始めた「計画管理」の一環として、それらを適宜『西米良村観光応援歌』という形で村に送り、関係者に転送してもらうやり方を採用しています。年度末にそれを一冊に纏める作業も8年目になりました。

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西米良村との係わりは今年で21年目になりました。これほど長く続いたのは、黒木村長さんの理解に寄るところが大ですが、私はおべんちゃらを言いませんから、途中で切れたところも多々ありますから、やはり相性がよかったという点が大きかったと思います。『西米良村観光応援歌』を読まれ、「そこまで言うか」と思われたり、カチンとくるケースも多々あったように聞いていますが、何のためにやるか、その目的を共有していることが肝要で、それが持続する肝ではないかと考えています。

その5-宮崎県県南地域

2005(平成17)年から2009(平成21)年の5カ年にわたってお手伝いした宮崎県県南地域観光再興計画調査も強く印象に残る仕事で、いろいろなことを学びました。この計画は、日南市と串間市、旧北郷町、旧南郷町(いずれも合併して現日南市)の観光の再興を図ろうというものです。本地域の海岸線は日南海岸ですが、かつて新婚旅行のメッカの一角を担ってきた面影は全くなく、バブル経済崩壊後の長引く観光不況によって観光客が減りつつける観光地をどのように再興するかが課題でした。

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ア.人材の育成については、かつて飫肥藩にあった藩校「振徳塾」を今に復活し、「観光からのまちづくり」を担う人材育成を図ると共に、学童を対象に「観光教育」を始めることを提案しました。前者の「振徳塾」は2007(平成19)年から始まり、小生の担当が終わってからも継続され、そこで聴講した生徒の一人がいたくまちづくりに発奮し、なんと2013(平成25)年に実施された日南市長選に立候補して当選された崎田恭平さんです。34歳という若さで、当選後も矢継ぎ早に大胆な政策を実施しています。「振徳塾」の望外の成果と言えましょう。

学童を対象に「観光教育」については、『カリブ観光読本』に刺激を受け、当時の商工労働部長の中馬章一氏に「宮崎版観光読本」の制作を具申したところ直ちに実行されて、2004(平成16)年5月に我が国最初の『観光副読本;わたしたちにできることってなあに?』が出来ました(右図参照)。県も手応えを感じたのか、なんと約17万部を作成して小学校高学年から中学生の全員に配布しています。

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これに刺激を受けたのが日南市の鵜戸中学校の校長先生に就任された柿木先生です。先生はまったく経験が無いにもかかわらず、サーフィンの用具を一式買いそろえ、なんと体育の時間に学校の目の前の海で子供達にサーフィンをさせたのです。子供達は大喜びで、それから今日はサーフィンが出来るかどうかを確かめるため、毎日海を見るようになり、季節によって海の色が変わることも“発見”しています。素晴らしいことで、これこそ観光教育が狙うところだと思いました。このニュースが県外に放映されたらしく、県外から「鵜戸中学に入学するにはどうしたらいいか」という問い合わせがあったそうです。そして翌年は、南郷中学校の課外事業でシーカヤックの活動が始まり、一躍宮崎県は「観光教育」の先進県に躍り出ました。

しかし、学校の活動は校長先生の意向が強く反映されるため、校長先生によっては学童を観光の宣伝に使うが如くの「僕ら観光隊」の活動を積極的に支持されない方もおられるようで、宮崎県の「観光教育」は一気に拡充というわけにはいかず、その後は一進一退の状況のようです。しかし、学童に対する「観光教育」に関して、しっかりとした種を蒔くことは出来き、小生的には“画期的な成果”と嬉しく思っています。

イ.地区・地域の連携・ネットワークの形成については、いろいろなケースがあります。同一地区でのケースとして、飫肥地区において城跡や武家屋敷等のある歴史文化財地区には観光客が来ますが、少々離れたところにある商店街はまったく観光客が来なかったため、それらを結ぶべく「食べ歩き・まちあるき」という仕組みを提案しました。すぐには動かず、提案後2年ぐらいして先進地の郡上八幡市の「食べ歩き」を視察に行き、一気に実現に向かいました。最初は歴史地区の有料施設の入場券と1箇所100円の買い物券が5枚付いて1,000円で販売していましたが、「食べ歩き・まちあるき」の人気が高まり、それを目的に来る人も出始めるようになりました。そしてこの“成功体験”が、日南市の油津港がカツオの一本釣り漁の日本一であることに着目した「カツオの一本釣り炙り重」という新しい郷土料理を産み出し、「観光からのまちづくり」が、少しずつですが広がりを見せています。

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●「観光計画」に関する著作。基本は「経験してきたことを書く」

前述しましたように『観光・レクリエーション計画論』1975は、“空軍的”仕事から “陸軍的”仕事への大きな転換点になった著作ですが、1974(昭和49)年1月に(財)日本交通公社から出版された『シンポジウム余暇社会の旅』という本を作るお手伝いしたのも、良い経験でした。出版の音頭をとったのは、記憶が正しければ(以下は全て同様です)、(財)日本交通公社の原重一さんで、総合監修は鈴木忠義先生でした。本は、二部構成になっており、第一部の「シンポジウム;人間にとって観光・レクリエーションとは何か」に参加する先生方の人選は、主に渡辺貴介さんと小生の意見を通していただいたように記憶しています。当時こういう観光の本を書く人が皆無でしたので、まず鈴木先生を核にして、黒澤明監督の『七人の侍』という映画になぞらえ、当時小生と同じマンションに住んでおり、食べ物の残留農薬等の理由でやたらと短命説を唱えていた西丸震哉氏や『日本沈没』を書かれた小松左京氏、社会文学者の米山俊直氏、「ローマクラブの報告書」の執筆者の1人だった茅陽一氏など気鋭の7名の方に、大まかな粗筋だけで、自由に喋っていただきました。大変面白い話が沢山聞けて、勉強になりました。印象に残っているのは、旅行の原点に関連して、米山俊直氏がアフリカのある種族では、一定の歳になった若者は群れを離れる「テンベア」という本能的活動がおこなわれている、といった話です。自分も若いときはそうだったと思う一方で、今の若い人には当てはまらなくなってきたかな(?)と思っています。

第二部の「観光レクリエーション試論」は、渡辺貴介さんが基本的な概念整理をし、フローチャートや数字、模式図を小生が担当し、文章は分担執筆しました。この部分の校正をされたのが、当時『るるぶ』の編集長をされていた伊崎恭子女史で、我々の拙い文章を読まれ、「この程度なら1ヶ月新聞を読めば書ける」と酷評されました。“我々は観光計画の先頭集団”と浮かれていましたから、鉄槌をくらった想いがしました。これで鍛えられたおかげで、慎重に文章を書くようになりましたが…。

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『観光・リゾート計画論 』総合ユニコム 1992
『AERA Mook 観光学がわかる』共著、朝日新聞社 2002
『西米良村の挑戦 』鉱脈杜 2004
『観光実務ハンドブック 』共著、丸善 2007
『リーダーが語る日本観光の行方 』共著、現代旅行研究所 2009

いずれも計画論か、計画を実践してきた記録書です。『観光・リゾート計画論』は、小生初の単独著者の出版で、まだ計画した大規模リゾートが一つも実現していない中で、こういうリゾート計画をしたいという願望的な計画論です。結果的に計画した大規模リゾートが一つも実現していないということは、まだまだ“甘い”計画論だったと言えましょう。それ以外の本は主に「観光からのまちづくり」をテーマにしており、全て自分が係わった事例を元にして書いています。

いわゆる出版はしていませんが、私版の著作としては、小生が雑誌や講演等で話したことが文字になっているのを集めた『人の集まるまちづくり;観光プランナーとしての25年間の著作集』を1992(平成4)年に制作しています(左図の右がその表紙)。1965(昭和40)年から1990(平成2)年分のもので、87件を収録しています。人はどう思われるか解りませんが、自分的には何かと役に立つ代物です。特に昔の記憶が定かではなくなってきた昨今は、大層重宝しています。本格的に自分史を書くことになった場合、必携書だと思っていますが、書くときが来るかどうかです。その続編が2003(平成15)年に制作した『観光からのまちづくり;観光プランナーとしての「第2ステージ」12年間の著作集』で、1991(平成3)年から2002(平成14)年分のもので、55件を収録しています(左図の左がその表紙)。これはバブル経済期のリゾートブームの時と重なっており、そうした原稿が多くなっています。当然の如く、「リゾートは必要」という立場をとっていますが、一度も別荘を持つことなく終わりそうで、“有言不実行”のそしりを免れないでしょうねぇ…。2003(平成15)年から2012(平成24)年までのものもまとめている最中ですが、資料整理の悪さと引っ越しのため、混乱を収拾するのに今しばらく時間がかかりそうです。

2003(平成15)年から自分でワープロを打つようになり、コラムを書くようになりました。その一部は弊社のホームページに掲載してきましたが、昨年一念発起して124編のコラムとその後日談をまとめ、430頁に及ぶものを作成しています(右はその表紙)。ただ、編集の関係で余白が出来た項に「後日談」を書くようにしており、その後日談が未完成のところもあるため、まだ製本はしていません。

未完成と言えば、25年以上前から書き始めてきた、観光地域計画をする際の要点等を100編まとめようとした『人の集まるまちづくり;観光地域計画語録100』です。当初はただ『観光語録』として悦に入っていたのですが、若いときは何かと忙しく、歳をとってきますと取り上げた語録の中には、賞味期限が切れたようなものもあり、筆が止まっています。しかし、サブタイトル「地球規模の温故知新で観光立国を!」と大きくふりかぶっていますから、古いことや多少音痴の話でも、反面教師になるかもしれないと、まだ温めています。後述するように『観光黒書』と、宮崎県での観光体験録をまとめようとしている『宮崎観光開発軌跡管見;昭和・平成;宮崎観光の来し方・行く末「ほほえみ花の国・宮崎」賛歌』をまとめたら、また『観光地域計画語録100』に戻ろうかと考えています。

●言いたいことを言ってきた講演と教育

〈講演〉

講演はいろいろやってきました。社会人になって10年ぐらいしてからお声がかかるようになり、バブル期が少々多いぐらいで、大体年間20~30件ぐらいでした。この講演活動は、観光地をより多く見聞きする上で非常に役立ちました。小生の講演は、事前にかなり詳細なレジュメを作成し、それに基づいて話すようにしています。パワーポイントが使えるようになってからは、パワーポイントが主になりましたが、作成にあたって当該観光地の出来るだけ詳細な資料を戴きましたし、講演の前には現地を見させていただくようにしていましたから、多くの観光地をかなり詳しく知ることができるようになったというわけです。しかし、その結果、本業の調査と併せて年間の出張回数は、ピーク時は150日を超える年が続き、100日以上の年が20年ぐらい続きましたから、家庭を顧みる時間は殆ど無く、3人の子供達の入学式や卒業式を始め、学校には一切行ったことがなく、きわめて異常なワーク・アンバランスでした。

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また、宮崎県では35年以上係わってきましたから、観光課に居続けることが出来ない県職員より宮崎県の観光の盛衰を知っており、2013(平成25)年に宮崎県の宮崎空港ビルから講演の依頼があった時、そうした長年の経験と宮崎県の思いの丈を思いっきり述べようと張り切りました。その結果、作成したパワーポイントはきわめて“長編”になり、案の定時間オーバーとなり、肝心の“結論(私説将来ビジョン)”をしっかり語ることが出来ませんでした。歳(衰え)を痛感しました。歳をとると話が長くなり、コンパクトにまとめることが難しくなります。しかし、悔しかったため、更に言いたいことをほぼ全て追加した“超長編”のパワーポイントを作成し、依頼主と宮崎県観光推進課に送信しました。ただ“拾う神”がいらっしゃったようで、さる大手企業の社長さんが「あれだけ宮崎県の観光を考えている方は珍しい」と話され、後日西米良村に視察に来られた、という話を聞いた時、嬉しかったですねぇ~。

〈教育〉

教育の経験は、自分間活動の中では、時間的には多くありません。立教大学で渡辺貴介さんからバトンタッチして非常勤講師をしたことがあります。期末にリポートを出す形式の授業にしたわけですが、あまりひどいものには赤点を付けていましたら、「難しい講義なので、大学院が出来たときに又お願いします」と言われ、あっさり2年ほどで首になりました。その後、母校で「造園学特論」と言うことで、学部で4年、大学院で20年非常勤講師をしたことがありました。この経験は小生にとって頭を整理する上で、大層勉強になりました。一週間に一度のペースで半年間ですから、大体15回の講義になり、それに則した講義用の教本がそれなりに出来ましたが、学部用は少々理屈っぽいものになっています。

その後、長崎国際大学の非常勤講師になり、夏の集中講義を8年ほど行いました。東大の経験で作成した教本をベースに話したわけですが、聞く学生にとっては“超難解”だったようでした。なにしろ大学で初めて観光計画に触れ、かつそれが実践的なものばかりでしたから、理解するのが大変だったと思います。同じく集中講義で多くの学生を集めていた講師の講義に、アメリカのレジャー論とかいった内容だったと思いますが、講師の方が「私アメリカにいったことが無く(?)、ディズニーも見たことがないのです」と、正直に告白された時は、のけぞったことがありました。

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